玉緒の日記

日々是流々

今年初のかす汁

新年がはじまり、最初の週末ということで、昨年末以来足を運んでいなかった飯屋に久々に顔を出した。昨年末は、近所に素晴らしく美味い昼の寿司を食わせる店を見つけて、ちょっと足が遠のいていた。年も変わり、久しぶりにあの味が恋しくなって、飯屋に運ぼうと意気揚々とでかけたのである。

 

暖簾をくぐり、中に入るとまずは小鉢を品定め。魚の煮付け、野菜の煮物、天ぷら盛り合わせ、おでんなど空きっ腹にやさしい見事なラインナップで、今回は長らく魚を食べていないこともあり、魚の煮付けをチョイスした。そして、お目当てのかす汁とご飯大盛りをコール。

 

飲食店ながらネコが店内で寝転がっているという、なんとも衛生的にはアウトなところではあるけれど、家でご飯を食べているようで妙に落ち着く。そうした雰囲気を求めてか、老人の客も多い。

 

しばらくすると、温められた魚とかす汁が登場。まずはかす汁を一口。うまい、なんとも言えずうまい。味に派手さはないけれど、にんじん、こんにゃく、ごぼう、その他もろもろの具がたっぷりと入っていて、食感も味のバリエーションも様々でとにかく満足である。ずずっとかすの効いた熱々の汁がお腹から円状に熱を広げ、体に染み渡る。魚はぷりぷりの身が食べ応え十分。醤油の味がほどよく染みこんでいて、魚のあっさりとした風味を上手に引き出した味だ。

 

大盛りのご飯をあっという間に平らげた。週末の楽しみは飯からはじまる。

欲しいマンガを探しに出かけたら

年末のこの時期は暇だ。だから、暇つぶしのためにマンガを買おうと考えた。

 

ブックオフなどの古本屋に寄って、どの商品を買うかなとワクワクしながらいろんなマンガを摘まみ喰いをして、これはと思うマンガを見つけると家でゆっくり読もうと思い購入しようとするんだけど、レジに持っていく前にネットでちょっと値段を調べると、そのお店で買うよりも断然に安かったりする。送料を入れても安い。こうなると、もう全然購買意欲が下がってくる。

 

つまり、かなり貧乏性なのだ。ここで言う貧乏性とは、すぐ手に入るという時間性、暇を持て余した休みのこのタイミングだからこそ欲しいという時期性、物を選んでそれを購入するという体験性、など諸々の価値軸を凌駕して、ただ価格性の優位にのみでしか判断できなくなるという、なんとも面白くない性質を言う。

 

この判断が恐らくは間違っているのだろうというのはわかっている。本を諦らめて車に乗るときの寂しさは筆舌に尽くしがたいものがある。決して本が買えなかったことが寂しいのではなく、価格優位性で恐らくはすべてのことが決着してしまうこの社会のシステムに対して、そしてシステムにプログラミングされそこから外れた行動をすることが許されなくなった自分に対する寂しさだ。

 

もうすぐ108つの煩悩を消す鐘が鳴るが、もう誰も煩悩に従って生きていける程にこの社会は甘くない。一見、煩悩がはびこる世に思えるが、そもそも煩悩が通じる社会は既に遺産でしかなく、もっと大きな目に見えない何かに煩悩さえも管理された、もっと言えば煩悩に従って自由に生きていると錯覚されるような社会に生きていることを、鐘の音に気づくべきだろう。

 

あの鐘の音は我々の心に対するレクイエムかも知れない。

 

 

ボカロの曲に乗せて

ボカロに自作の曲を歌わせた音源が、最近よくYouTubeニコニコ動画なんかにあげられている。僕も好きでよく聞く。肉声とは違った感情を感じられない電子的な声(音)が、実社会では陳腐化された永遠の愛やありそうも無いドラマを歌うと、妙に心地よく心に響く。

 

僕は、それ以前にはまずJ-POPをよく聴いていた。年代で言うと90年代の曲、GLAYスピッツWANDSなどのビーイング系小室ファミリーなどなど。何が良かったのだろう。一つは、歌詞である。だいたいが「君」に宛てた愛や恋などのメッセージなのだが、時代がまだバブルの残り香があった頃で、割と浮かれた世の中の情景にマッチしていて、そこには有りそうも無さが有り得るのではないかとう落差に生じるロマンが感じられた。だけど、2000年を超えたあたりから時代は経済的に急速に失速し始め白けモードとなり、それまで輝きを持っていた愛や恋に絡む歌詞も「そんなロマンはこの世の中にねーよ」と、嘘っぽく聞こえ始める。そのため、この辺りから今のAKB48に連なるアイドルのパロディの走りが出だす。嘘っぽく聞こえる歌詞を解っている奴らが解っているがゆえに嘘っぽく楽しむ、戯れの時代に突入だ。

 

でも、僕はそれに乗れなかった。まだどこかロマンを求めていた。でも、ロマンなんて存在しないこともわかっていた。だから、アニソンにのめりこむ。理由はこうだ、ロマンが現実に存在しないのならそれを諦めるのではなく別の世界にそれを求めればよい、つまりは二次元である。実社会では有りそうも無さが露呈したゆえに陳腐化された愛や恋などのメッセージが、アニメの世界なら現実として有り得るから陳腐化されることなくロマンとして、かろうじてではあるが存在する(と思える)からである。ちなみにロマンを早々と諦めた人たちはハロプロに走った。モーニング娘。である。

 

こうした状況が加速し出すと、必然的にというか人間の声が、まるでまるで南国にペンギンがいるかのように、場違いに聞こえ出す。現実を想起させるわずかな可能性(肉声)が心にひっかかるためである。だから、ボカロが登場したのはある意味、当たり前なのだ。もちろん、ボカロが登場した背景にはアマチュア作曲家の自己表現ツールという側面が大きいことも確かだ。ただ、今これほどにボカロの曲が特定層に受けいれられているのは、曲を作る側の需要よりも受けて側の需要が多いからだろう。つまり、ボカロじゃないともうロマンを楽しめない人間が増えているということだ。

 

いずれ、アニメの声優もボカロに置き換わられる日が来るのではないかと思う。

買ったったー買ったったぞー!

飯、ガソリン、その他消耗品にはなんのためらいも無くお金を使うのだけれど、後々に残るもの、例えば電化製品、服、キッチン用品などには、思い切ってお金を使えないほどに臆病な僕。実際に品物を見に行くと思い切りがついて、その場で買ってしまうということがあるみたいだけど、僕は真逆で物を見たからこそ「こんな(後々に残るような)大きな買い物できないよ」と買い物を思いとどまったり、財布からお金を出すのがなんだか嫌でためらってしまったりで、結局家に帰ってから「ああ、あれをやっぱり買っておくんだった」なんて思ってしまうわけである。

 

だから、Amazon楽天市場の登場ってとってもありがたい。実際にお金を財布から出す重みも無いし、品物をこの目で見ているわけではないので「買っている」という実感も薄らいでいるし、気軽に買い物を楽しめる。これってまさに僕のような人間には本当にピッタリなサービス。僕のような人はけっこう多いような気がするけれど、どうなのだろう。大型量販店に品物を見に行って、実際に買うのは家でAmazonでポチっなんてことをやっているわけだが、これは決してAmazonの方が安いからではなく、「買う」という決心に至るまでの超えなくてはいけないいくつものハードルをすっ飛ばすことができるからなのである。ちょっと考えるとこれは恐ろしいことだが、買い物してる気にさせないサービスはドンドン出てきて欲しいと思ったりしている。

 

さて、前置きが長くなってしまったが、またしてもAmazon楽天で品物を購入。一つは、甥っ子へのクリスマスプレゼント。もう一つは壊れてしまった時計の代わり。プレゼントはいろいろ見てみたけど全然わからない。今どきの子どもって何がいいのか、1時間以上Amazon楽天、その他サイトを見て回ったけれどピンと来るものがなかなか見つからない。まず、甥っ子は4歳でまだゲームは簡単なものができるくらいだから、ゲーム類はちょっと早い気がする。電車が大好きなのだけれど、好きがゆえにプレゼントする側からすると下手な物を選べないからこれも難しい。で、いろいろ迷った挙句にレゴブロックにした。僕が小さい頃、ブロックに夢中になっていろいろなものを作っては壊し作っては壊しと遊んでいたことを思い出して、まぁ多分コレなら彼も少しは楽しめるかも知れないと、購入。小さい頃って何かを作るのはもちろん楽しいけれど、壊すのもまた楽しい。積み木を積み重ねて、積み重ねてドーーンとしたり。ブロックだと、一度作ったのを壊して、また作って楽しめるし、きっとコレが良かったんだろう、と強引に納得。で、これだけだと面白く無いのでウマのかぶりものを一緒に購入。せっかくのクリスマスなので、かぶってギャーギャー言って遊んでもらいたいなぁと。意外にブロックよりもウケがいいかも。

 

そして、楽天で時計を購入。時計は使えればそれでいいやというスタンスで、これまではSEIKO5を使っていたので、今回も同じタイプのものを購入。ポイントが5000円相当たまっていたので、それでほとんどタダ同然でゲット。シンプルで飾らない見た目が割と気に入っている。

 

そうそう、そう言えばAmazonで電気毛布も購入した。最近、朝に寒さで目が覚める。本当に寒いのだ。寒さで目が覚めるなんて、これまで記憶がある限りでは一度も無い。酔っ払って駅のホームで寝てしまって、朝に寒さで起きるのはこんな感じなのだろうか辛過ぎる、とここ最近、目覚めの悪い朝にろくでもない妄想をしている。こんな朝はもう嫌だ、我慢ならぬということで、最安値の電気毛布をポチったのだ。ところが、実は僕は肌が弱くておまけに汗っかきのため、電気毛布を使うとかなりの確率で、汗疹ができてしまう。仕事中も長い間イスに座っていると汗ばんできて、膝のあたりと太ももの付け根は毎年のように汗疹ができている。その上、電気毛布を使うと、今度はお尻に汗疹ができるのだ。これは実はかなり辛い。寒さよりも辛かったりする。なにしろ痛いのだから。

 

しかし、葛藤もAmazonの前では何の抑止力も持たない。ただ、そこにボタンがあるからクリックするだけなのだ。あれは考えることから逃げるためのボタン。本当に便利なサービスだ。

 

 

近所の寿司屋に思い切って入ってみた

近所に寿司屋がある。いつも利用しているクリーニング屋の隣だ。昔からやっているお店らしく見た目は相当な老舗。そして、外からチラっと伺う感じではカウンターが数席あるぐらいのちょっと敷居が高そうなところである。ここに越してきて、もう二年も経つが、そういうところもあって入ったことが無かった。

 

ただ、一つ気になっていたのは「にぎり定食 750円」というメニュー。しかも、そばかうどん付きらしい。紙に書かれたそのチラシが窓に貼ってあるのだが、数年前からずっと貼られているのか、相当経年劣化した様子だ。ちょっとそこには惹かれながらも、メニューの古さがちょっと怪しいし、敷居は高そうだし、入れずにいた。おまけに、朝出勤途中に見かける大将がけっこうな強面で、無作法なことをすると一喝されそうな雰囲気なのである。そんなこともあって、二年間訪れることが無かった。

 

しかし、今日、お昼前にクリーニング屋に寄って、店を出たところ急にお店に入ってみる決意が固まった。お昼をどこで済ますか決めきれないでいたし、なんだか今日なら「いっちょ入ってみるか」という妙な勢いがあったのだ。

 

ドアを開けて中に入ると、意外にも大勢の客がいた。中には小さな座席があって6、7人ほどのマダムたちがそばをすすっている。そして、二人がけのテーブルが三つほどあって、そのうちの二つは埋まっていた。とりあえず、大将の奥さんらしき人にお目当てのにぎり定食(そば)を注文し、テーブルに腰をかける。

 

店内を見回すと大将の前には美味そうなネタが並んでいる。ブリの大きなネタが一際存在感を放っていた。他のネタのメニューも天井から下げられている。「うに 800円」「赤だし 300円」「刺身盛り合わせ 1000円」などなど。にぎり盛り合わせなるものもあって、今度来た時はこれもいいかもなと思うほどに、既にお店が気に入ってしまっている。実際、よくあることだがメニューを食べずしてもう既にその店が気に入ってしまっていることが多々ある。こういうときの直感はまず外れないもので、今回も当たりだった。まずはそばが運ばれてきて、熱々のありがたいダシをすすっているところに肝心のにぎりがやってきた。7貫あり、たこ、たい、ぶり、あなご、えび、まぐろなどである(あとの一貫はこういうところに不慣れなものでわからなかった…)。「巻き寿司が多かったりするのだろう」と考えていたが、意外にも豪華な内容で心は躍る。「ほら、やっぱりこの店は当たりだ」などと、二年間も足を踏み入れることができなかったくせに、勝手を言ってしまうほどだから呆れる。

 

味は申し分なし。ネタは芯の通った歯ごたえで新鮮な風味、酢の加減もちょうどよし。おまけにさびの量も僕好みときた。あっという間に平らげて、上機嫌で会計を済ます。馴染みの客っぽい人たちは、食後はNHKのど自慢を見ながらのんびりすごしている様子。帰り際、満点の鐘が鳴った登場者に大将「ほんまかいなぁ」と漏らした。「ご馳走様でした」と大将に頭を下げると、「ありがとう」と強面を崩して微笑んでくれた。大将に「また来るで」と心でつぶやいて、店を後にした。

昔ながらの食堂でかす汁を食べてきた

朝のんびり起床し映画を一本観て、それから朝食兼昼飯を食べに行った。どの店にするか迷ったが、最近は揚げ物ばかり食べていたこともあり、ここは一つやさしい家庭的な味が欲しいと腹が言うので、近所の昔からやっている風の食堂に行くことにした。

 

店の前に来ると、張り紙がある「かす汁 さくらの咲くころまでやっています」そうだ、これだ。やっぱりここにして正解と勢いをつけて、乗り込む。店に入ると客が二人。どちらも年配の女性で、馴染みの客のようにくつろぎながら店主と話しこんでいる。まずは、店の入り口でおかずを一品選ぶ。鮭の塩焼き、鯖の味噌煮、コロッケ、煮物…いろいろあるが、ここは肉じゃがに決定。とにかく野菜が食べたかった。そして、店主である齢80前ほどのおばちゃんに「かす汁一つ、あとご飯大盛りで」と注文を済ませる。

 

席に着くと向かいでかす汁をすすっているおばちゃんが、「お茶をどうぞ」と茶碗にお茶を注いでくれる。ありがたく一杯ちょうだいし、寒さで凍えた体を温める。番茶だ。やかんから注いでもらったお茶が体に染みる。ひとまず落ち着いたところで、店の中を見回す。店の中は、昭和時代にでもタイムスリップしたのかと思うほどに古めかしい。木造家屋の壁に貼ってあるメニューは筆の手書きで、テーブルは家にあるような大きな物が二つあるだけ。どちらも向かい合って座るタイプのものだ。

 

お待ちかねのかす汁が登場。待ってましたとばかりに一口すする。美味い、あつあつで美味い。酒の味は濃い目で、具は大根、にんじん、ごぼう、こんにゃくなど盛りだくさん。冬と言えば、この味に限る。熱い汁をすすりながら、ときおり肉じゃがを食べ、ご飯をかきこむ。付け添えのたくあんを噛むポリポリという音が顎に心地よい満足感を与えてくれる。遅いご飯なだけに腹が減っていて一気に食べ進めてしまった。しばらくして、また店主と客が会話を始めた。「うちのかす汁は徳島の地酒からとれる酒かすを使ってるんですよ」と店主。「これが美味しいと酒かすを買うて帰る人もおるんですわ、普通は売っては無いんですけどね」。なるほど、確かにそう言われてみるとより美味しく感じてくる。単純なものである。でも、美味い。「能書きはいい」と誰かが言ってたけれど、能書きを抜きにしてもここのかす汁は美味いと思う。

 

店主と客はネコの話しをし始めた。どうやらこの店の中にはネコがいるらしいのだが、姿が見えない。「ネコはよく知ってまして、あそこのテレビの後ろが一番あたたいもんで、隠れてるんですわ」とのこと。天井近くの棚には大きなテレビが鎮座している。どうやらあそこの後ろにネコがいるらしい。なおも続くネコの会話に聞き耳を立てながらかす汁をすする。あっという間に、大きな器にたっぷりと入れられた汁を全て飲んでしまい、ご馳走様。

 

食後に店主と話し込んでいると、コーヒーを入れてもらった。「最近はチューハイゆうのが売ってますやろ、あれを買うて飲んでみたけど甘くて最後までよう飲みませんでしたわ」と最近のお酒がわからないと言うおばちゃん。酒を飲むのも最近はファッションの一つですから味はなんでもいいんです。と、訳のわからない理屈を言ってさらにおばちゃんを困惑させてしまった。

 

外に出ると、風が痛いほどに冷たい。「また、来るか」とつぶやいて店を後にする。

映画「ヒミズ」を観た

人間は三つの存在システムの中に生きている。家族、社会、世界だ。それぞれのシステムは空間的には接続しているが、意味的には独立して存在している。家族の中からは社会は見通せないし、ましてや世界を見ることはない。それぞれのシステムの窓から見える景色は全く異なったものである。

 

本作の主人公である住田祐一は普通の生活を生きることを願う少年である。彼の求める普通とは何か。物語からわかる範囲では、一般的な家庭生活(親がいて生活基盤が整った家庭)がそれにあたる。彼が「普通を求める」ということはそこには「普通」の生活が無いことを意味する。この場合、彼の家族生活は終わっていて、だからこそ彼は再帰的にそれを求めているのだ。具体的には、彼の父親はアル中で借金まみれ、母親は不倫相手と息子を捨てて逃げ出すほどに保護者であることを放棄、彼のいう「普通」からは程遠い。彼は「普通の」家族を求めるが、それは最早「普通」ではない。手の届かない憧れのもの、つまりは普通を求めながらも特別なものを求めているわけである。このように、彼の所属する「家族」というシステムは崩落している。

 

ところで、本作の舞台は3.11大震災と重なる。彼の住む地域も大打撃を受けたものと思われ、例えば彼の家の周辺には家をなくした被災者がテントを貼って暮らしている。通常の生活を送っていて「世界」と触れることはない。しかしながら、震災を契機として彼は自分の外に広がる世界に接することになる。「世界」とは人間がコミュニケーションすることが不可能な次元だ。それは自然であったり地球であったり宇宙であったり、または観念的なものである。通常、人間の側からは接することはできないが、例えば宗教のような触媒を利用することで「世界」と接しようとこれまでも行われてきた。犯罪を犯した人間は教会に駆け込み、家族、社会では救われなかった罪について祈りを通して贖罪を求める。または、社会では見放された不治の病を祈ることで治そうとする。家族、社会というシステムでは救済できなかった事案を考えるにつき、「世界」というシステムはその外に広がる受け皿としての機能を我々は求める。本作では逆に、自然、つまり「世界」の方から人間にコミュニケーションを求めてきた。

 

本来ならば、「世界」というシステムに飲まれ「家族」というシステムからの脱皮を主人公は行うべきであったのだが、彼はそれを拒む。理由は後に述べるが、それをモチーフするのが拳銃自殺だ。「世界」システムによる救済は自殺することで完成されるはずであった。「世界」における救済は現世においてではない、死後または輪廻転生後に成就するものだ。ならば、彼が世界と触れることで救済を得るならば、あの場面で自殺するしかなかったはず。ところが、彼はそれを拒否した、なぜか。茶沢景子という存在がいたからだ。彼女は元々、彼の周りに存在する被災者と同じ「社会」に存在する人間だった。彼は特段、社会に対しては何ら嫌悪感を現さない。被災者が彼の土地に居座ることを拒否はしないし、むしろ好意的ですらある。茶沢景子に対しても社会の側から関わろうとする限りにおいては、問題なく振舞う。ところが、茶沢景子は社会ではなく家族(夫婦!)として彼に接したいと考えるようになる。

 

エンディングでは、茶沢景子の熱意に押され彼女を受け入れ自殺することを思いとどまる。彼の求めた家族システムが将来の時点ではあるが、かろうじて存在することが期待できるからだ。二人で共に手をとり、殺人犯として出頭することで現世に留まって、一見ハッピーエンドとなる。

 

本来ならば、視聴者はここでカタルシスを得るはずだが、それを素直に受け入れられないはずだ。住田祐一にしても茶沢景子にしても一度、家庭を失った存在である。再帰的に彼らは家族システムを維持したいという期待の一致により、一緒になることを選んでいるが、そもそも彼らの求める家族システムは再帰的ゆえに成就することは無いからだ。同じ家族システムであっても、そもそもそれを維持している人の家族システムと彼らの家族システムとは一見同じに見えて全く異なる。なぜなら、住田祐一らの求める家族には一種のノスタルジックな想いが含まれるからだ。一般に我々が、ノスタルジックな想いに浸るとき、心に描いた情景と同じ情景に現実に出会ったとしてもカタルシスは得られない。それは、現実になった瞬間に俗な情景になるからだ。もう一度言うが、彼らの求める家族像は再帰的でありノスタルジックなものである。例え、将来的に結婚することができたとしても、それは彼らの求める家族とはまた違ったものにしか必然的にならない。だからこそ、これは悲劇の物語なのである。原作では自殺によって「世界」に救済される主人公が描かれていたが、本作では「家族」に滅される主人公が暗示的に描かれている。その点で、原作よりも悲劇に満ちた後味の悪い思いを抱かずにはいられない。しかし、それこそがまさに現実であるとどこか納得した気持ちになる。