玉緒の日記

日々是流々

ボカロの曲に乗せて

ボカロに自作の曲を歌わせた音源が、最近よくYouTubeニコニコ動画なんかにあげられている。僕も好きでよく聞く。肉声とは違った感情を感じられない電子的な声(音)が、実社会では陳腐化された永遠の愛やありそうも無いドラマを歌うと、妙に心地よく心に響く。

 

僕は、それ以前にはまずJ-POPをよく聴いていた。年代で言うと90年代の曲、GLAYスピッツWANDSなどのビーイング系小室ファミリーなどなど。何が良かったのだろう。一つは、歌詞である。だいたいが「君」に宛てた愛や恋などのメッセージなのだが、時代がまだバブルの残り香があった頃で、割と浮かれた世の中の情景にマッチしていて、そこには有りそうも無さが有り得るのではないかとう落差に生じるロマンが感じられた。だけど、2000年を超えたあたりから時代は経済的に急速に失速し始め白けモードとなり、それまで輝きを持っていた愛や恋に絡む歌詞も「そんなロマンはこの世の中にねーよ」と、嘘っぽく聞こえ始める。そのため、この辺りから今のAKB48に連なるアイドルのパロディの走りが出だす。嘘っぽく聞こえる歌詞を解っている奴らが解っているがゆえに嘘っぽく楽しむ、戯れの時代に突入だ。

 

でも、僕はそれに乗れなかった。まだどこかロマンを求めていた。でも、ロマンなんて存在しないこともわかっていた。だから、アニソンにのめりこむ。理由はこうだ、ロマンが現実に存在しないのならそれを諦めるのではなく別の世界にそれを求めればよい、つまりは二次元である。実社会では有りそうも無さが露呈したゆえに陳腐化された愛や恋などのメッセージが、アニメの世界なら現実として有り得るから陳腐化されることなくロマンとして、かろうじてではあるが存在する(と思える)からである。ちなみにロマンを早々と諦めた人たちはハロプロに走った。モーニング娘。である。

 

こうした状況が加速し出すと、必然的にというか人間の声が、まるでまるで南国にペンギンがいるかのように、場違いに聞こえ出す。現実を想起させるわずかな可能性(肉声)が心にひっかかるためである。だから、ボカロが登場したのはある意味、当たり前なのだ。もちろん、ボカロが登場した背景にはアマチュア作曲家の自己表現ツールという側面が大きいことも確かだ。ただ、今これほどにボカロの曲が特定層に受けいれられているのは、曲を作る側の需要よりも受けて側の需要が多いからだろう。つまり、ボカロじゃないともうロマンを楽しめない人間が増えているということだ。

 

いずれ、アニメの声優もボカロに置き換わられる日が来るのではないかと思う。