玉緒の日記

日々是流々

緊張するということ

飯屋のカウンターに座って、その店イチ押しの餃子よりも美味い鶏のから揚げを食べながら、奥座敷の三人の会話を聞いていた。

 

年配のおやじさんとおそらくはその息子夫婦。おやじさんと嫁はよく喋る一方、息子はその間の会話には全く入らない、というか入る気すらない模様。よくよく耳を澄まして様子を伺ってみると、おやじさんと嫁は話が盛り上がっている風でも無く、お互いの共通の話題を必死にかき集め何とか場を成り立たせようとしているのがわかる。本来ならば、息子が二人の間に入り場の雰囲気を作るべきなのだろうが、この息子は早く帰りたいのか全く会話に入る気は無いようで、下ばかり向いている。そこで、おやじさんと嫁が仕方なくお互いの共通項を探り合っているという次第なのである。

 

ところで、嫁の様子を見ていると明らかに緊張しているのがわかる。何とか話を途切れさせまいととにかく喋ってはいるが、声は上ずりやけにソワソワしているのだ。ここで僕がおやじさんの立場だったらどんな話題を切り出すべきか、鶏のから揚げにちょっとマヨネーズをつけながら考える。

 

きっと僕ならこう切り出すだろう、「人はどうして緊張するのだと思う?」と。こうすることで、自分が相手の緊張を理解しているということをわかってもらえ相手の負担も少しは軽くなるかもしれないと考える一面もあり、はたまた僕は割と破滅的なところがあって相手が嫌がるであろうことを敢えて無視した形で空気を読まずに話題にしてしまおうと考える一面もある。そして、次にこう質問するのだ。

 

「緊張をほぐすためにはどうすればいいと思う?」。

 

こうやって話題をシミュレーションしながら、答えを必死にさぐってみる。自分の過去体験のデータベースを探ってどうした場合に緊張がほぐれたのか、脳みそをフル回転させて思い出し、そこから何か抽象的な、つまり個々の体験から帰納的に導き出した一般論を創りあげるのだ。そうやって何とか答えを準備してから、僕なら次にこう答える。

 

「セックスをすることだよ」

 

と。嫁からは僕に対する嫌悪感、猜疑心、絶望、いろいろなマイナスの感情が予測どおりに表れるはずだ。だが、僕には彼女の感情を十分に和らげられるだけの、体験に基づいた説得力のある百万個ほどの言い訳を既に頭の中で考えている。上手くいけばマイナスの感情をプラスにまで持っていけるかも知れない。それが無理でもいくらか感情の揺れは抑えられているはずだ。そして、どっちにしてもその頃には彼女はもう僕を前と同じようには見ていないと思う。つまり、これは何の話だっけ?そう、緊張についてだね。もう十分に嫁とは打ち解けられている気がするのだけれど、果たしてどうだろうか。

 

この辺りまで妄想を進めたところで、三人は帰ることになった。僕は肉汁を上手く閉じ込めた実にジューシーなから揚げの余韻に浸りながら、iPhoneを打つ。

 

セックスについてはまた今度。