玉緒の日記

日々是流々

散髪という苦手

今日日、「散髪」という言葉を使うこと自体、おしゃれに無頓着なことを周りに知らしめているようなものであるが、実際のところ本当に無頓着なのである。

 

小さな頃から、髪を切るたびに理想の散髪後の自分と実際に鏡の前に現われた悲哀に満ちた自分との乖離に絶望的な気分になってきたという経験が、今日の僕の散髪に対する苦手意識を作り上げてきたわけである。小さな頃は、散髪屋に行くと親から電話が散髪屋にかかってきて「ここはこうで、あそこはこう」と理容師さんに指示が飛んでいるのは、毎度の光景だった。もちろん、できあがった頭は自分の理想とはかけ離れた、まるで大五郎のような悲惨なもので、本当に散髪が嫌いだった。何度か、家に帰って怒りのあまり号泣したこともある。

 

そして、いつの頃からか嫌いを通り越して「もう好きにしてくれ」とある種の諦めが心の中に漂うようになった。もう何も期待しない、できるだけ自分の中のハードルを下げておくことで、散髪後の自分をスッと受け入れることができるように、いわば心の鍛錬を半ば強制的に行ってきたのだ。こんなわけで、散髪に行っても今では自分の頭がどうなろうがもうどうでもよくなってしまったのである。もちろん、今では親からの指示は無いけれど、けっこうなクセ毛で散髪後は毛が馴染むまでは四方に散らばったような状態になり、どの道おしゃれなものにはならない。もう好きにしてくれ状態である。

 

しかし、こうなると散髪をされている間はめちゃくちゃ暇になる。自分の頭がどうなろうが気にならないので鏡も見る必要が無いのだけれど、かと言ってテレビなんか置いてある気の利いた散髪屋でもないので、もうただひたすら目をつぶって寝ているフリをしているしかない。なんとなく眠くてウトウトできているときは良いんだけれど、困ったことに僕には弱点があって右の首の後ろあたりがものすごく弱いのだ。あそこを触られると体がビクッと反応してしまって、自分では抑えられない。我慢するために体中に力を入れているのだけれど、おそらく理容師さんにはバレバレなんだろう。寝ているフリをしているのも、同時にバレていると思う。

 

こんな具合で、散髪は苦手なのだ。茂木健一郎さんのように自分でチョキチョキ切れればいいのだけれど、あいにくああいう自由人のような髪型が許される自由な身でも無いので、おとなしく3ヶ月に1回は散髪屋さんに通っている。

 

ちなみに、今日散髪屋に行ってきた。理容師さんに「お客さん髪の量がすごいですね」と言われたが彼はわかっていない、髪が太いだけなのだ。