玉緒の日記

日々是流々

映画「ヒミズ」を観た

人間は三つの存在システムの中に生きている。家族、社会、世界だ。それぞれのシステムは空間的には接続しているが、意味的には独立して存在している。家族の中からは社会は見通せないし、ましてや世界を見ることはない。それぞれのシステムの窓から見える景色は全く異なったものである。

 

本作の主人公である住田祐一は普通の生活を生きることを願う少年である。彼の求める普通とは何か。物語からわかる範囲では、一般的な家庭生活(親がいて生活基盤が整った家庭)がそれにあたる。彼が「普通を求める」ということはそこには「普通」の生活が無いことを意味する。この場合、彼の家族生活は終わっていて、だからこそ彼は再帰的にそれを求めているのだ。具体的には、彼の父親はアル中で借金まみれ、母親は不倫相手と息子を捨てて逃げ出すほどに保護者であることを放棄、彼のいう「普通」からは程遠い。彼は「普通の」家族を求めるが、それは最早「普通」ではない。手の届かない憧れのもの、つまりは普通を求めながらも特別なものを求めているわけである。このように、彼の所属する「家族」というシステムは崩落している。

 

ところで、本作の舞台は3.11大震災と重なる。彼の住む地域も大打撃を受けたものと思われ、例えば彼の家の周辺には家をなくした被災者がテントを貼って暮らしている。通常の生活を送っていて「世界」と触れることはない。しかしながら、震災を契機として彼は自分の外に広がる世界に接することになる。「世界」とは人間がコミュニケーションすることが不可能な次元だ。それは自然であったり地球であったり宇宙であったり、または観念的なものである。通常、人間の側からは接することはできないが、例えば宗教のような触媒を利用することで「世界」と接しようとこれまでも行われてきた。犯罪を犯した人間は教会に駆け込み、家族、社会では救われなかった罪について祈りを通して贖罪を求める。または、社会では見放された不治の病を祈ることで治そうとする。家族、社会というシステムでは救済できなかった事案を考えるにつき、「世界」というシステムはその外に広がる受け皿としての機能を我々は求める。本作では逆に、自然、つまり「世界」の方から人間にコミュニケーションを求めてきた。

 

本来ならば、「世界」というシステムに飲まれ「家族」というシステムからの脱皮を主人公は行うべきであったのだが、彼はそれを拒む。理由は後に述べるが、それをモチーフするのが拳銃自殺だ。「世界」システムによる救済は自殺することで完成されるはずであった。「世界」における救済は現世においてではない、死後または輪廻転生後に成就するものだ。ならば、彼が世界と触れることで救済を得るならば、あの場面で自殺するしかなかったはず。ところが、彼はそれを拒否した、なぜか。茶沢景子という存在がいたからだ。彼女は元々、彼の周りに存在する被災者と同じ「社会」に存在する人間だった。彼は特段、社会に対しては何ら嫌悪感を現さない。被災者が彼の土地に居座ることを拒否はしないし、むしろ好意的ですらある。茶沢景子に対しても社会の側から関わろうとする限りにおいては、問題なく振舞う。ところが、茶沢景子は社会ではなく家族(夫婦!)として彼に接したいと考えるようになる。

 

エンディングでは、茶沢景子の熱意に押され彼女を受け入れ自殺することを思いとどまる。彼の求めた家族システムが将来の時点ではあるが、かろうじて存在することが期待できるからだ。二人で共に手をとり、殺人犯として出頭することで現世に留まって、一見ハッピーエンドとなる。

 

本来ならば、視聴者はここでカタルシスを得るはずだが、それを素直に受け入れられないはずだ。住田祐一にしても茶沢景子にしても一度、家庭を失った存在である。再帰的に彼らは家族システムを維持したいという期待の一致により、一緒になることを選んでいるが、そもそも彼らの求める家族システムは再帰的ゆえに成就することは無いからだ。同じ家族システムであっても、そもそもそれを維持している人の家族システムと彼らの家族システムとは一見同じに見えて全く異なる。なぜなら、住田祐一らの求める家族には一種のノスタルジックな想いが含まれるからだ。一般に我々が、ノスタルジックな想いに浸るとき、心に描いた情景と同じ情景に現実に出会ったとしてもカタルシスは得られない。それは、現実になった瞬間に俗な情景になるからだ。もう一度言うが、彼らの求める家族像は再帰的でありノスタルジックなものである。例え、将来的に結婚することができたとしても、それは彼らの求める家族とはまた違ったものにしか必然的にならない。だからこそ、これは悲劇の物語なのである。原作では自殺によって「世界」に救済される主人公が描かれていたが、本作では「家族」に滅される主人公が暗示的に描かれている。その点で、原作よりも悲劇に満ちた後味の悪い思いを抱かずにはいられない。しかし、それこそがまさに現実であるとどこか納得した気持ちになる。