玉緒の日記

日々是流々

松本大洋原作の映画「鉄コン筋クリート」を観た

モチーフはくたびれた町、そこにヤクザがやってきて大きなハコモノを建てようとする。しかし、町で育った人たちは、それが自分たちの町を壊す【巨大なシステム】だと直感的に気付き、それに抗おうとする。そうした流れがどうした結果をもたらすのかについて最も感受性の高い人間の象徴として、「ネコ」と呼ばれる子どもたちが松本大洋に主人公として選ばれたわけだ。

 

舞台となった宝町は、商店街など昔ながらの街並みが残ってはいるが、シャッターはほとんど降りてしまって開いている店は少なく、また町の中にも空き家が目立つ。ヤクザが「子どもの城」を建てるまでもなく既に終わってしまっている町だ。だけど、この町に育ち今なお住んでいる者たちにとっては、大切な【生活空間】なのである。【巨大なシステム】に呑まれてしまっては自分たちの生きる基盤を失うことになるため、ネコをはじめとする住民たちは必死で町【生活空間】を既存のままに守ろうとする。繰り返すが、町はどのみち終わっている。放っておけば早晩、衰退するのは目に見えているし、「子どもの城」をはじめとする巨大な資本に食いつぶされるのも避けられない。そこで、彼らはどうした道を選ぶのかが物語の焦点になる。

 

ところで、途中から展開はネコの二人の少年シロとクロの内面描写に重点が移る。純粋無垢なシロと厭世観を持ったクロ。互いの欠陥を埋めるため、それぞれが相手を求めるという構図である。一度は離れ離れになった二人だったが、最後はまた一緒になり自然の豊かな海で二人で戯れる場面で物語は終わる。では、実際、町はどうなったのか。少なくとも映画の中には描写されていない。そもそも、この物語の出発点は町であったはずだ。だからこそ、町の描写は細かすぎるほどに描かれていたし、序盤では人間を描く構図でも、人間が見えないほど小さく引き気味に撮って、町の輪郭を執拗に表現していた。それが、後半は絵的にも人間がクローズアップされて終わる。途中で、物語が町⇒人へと大きく変化している。

 

その辺りの流れが素直に読み込めなかったが、生活空間を奪われた人間は自分の内面に退避するということを表現しているのだろう。結局は、システムには抗えなかった、つまり町を「救え」なかったネコの2人が実際の空間的町から退避し、内面の中に生活空間に代わる二人の「町」を築きあげたと読める。エンディングで現れる海は彼ら二人の最後の楽園であり、心象風景なのだろう。

 

であるならば、本作は結局は絶望の物語である。システムに対峙するには内面へ退却し、それぞれの精神の繭にこもるしかない。しかし、そこから蝶になれる者はひとりもいないだろう。フィクションに戯れるだけで満足できるほどに、人間は強くない。であるがゆえに、本作はどこまでもリアルであり、それこそが本作の醍醐味だ。

 

近所のTSUTAYAでDVDを借りてきた

もうタイトルのとおりなんだけど、DVDを借りてきた。たまにある旧作レンタル100円の日だったので、ここぞとばかりに借りてきた。ほとんど新作を借りることはないので、ありがたい限りである。

 

ところで、映画の長さはだいたい2時間程で、これを全部観るとなると相当な時間を消費することになる。つまらない映画に当たってしまうと、2時間を無駄に消費することになるし、つまらない映画の効用として体感時間は3時間でも4時間にでも感じてしまう。最後まで観なければいいじゃないかと言われればそうなのだけど、映画によっては後半部分で一気に面白くなるもの、例えば「ニューシネマパラダイス」なんてまさにそうであるが、こういうのもあるわけで最初だけでは判断がつかないものもある。この映画は、後半というか、最後のあのエンディング部分が絶頂であり本当に価値ある場面はあそこだけである。それ以外の部分はエンディングに対してふりかけ程度しかない。かと言って、他の部分は必要ないのかと言うとそういうわけでは無いのだけれど…要は最後まで観てみないと、それが面白いのか面白くないのかはわからないのだ。だから、結局は全部観るしかない。それに、生来の貧乏性であるためほんの最初だけ観て止めてしまうなんてことは、どうしてもできない。「最後まで観るという行動自体に価値がある」と哀れながら信じてしまっている。この染みったれた根性のため、イヤイヤながらも最後まで観た作品は数あまたある。

 

さて、今回借りたのは「ヒミズ」「麦の穂をゆらす風」「ミュンヘン」「鉄コン筋クリート」の4本。昔は、「つまらない映画なんか借りたら大変だ」という恐怖から、アカデミー賞なりなんたら賞なり、何かしら賞によって評価されているものを借りていた。ハズレはないだろうと考えていたけれど、残念ながらこれが間違いであることに気付いたのはごく最近である。近頃は、映画の評論やネットに転がっている批評なんかを頼りに映画を探してみていることにしている。今のところ割とアタリにめぐり合えている気がするのだけれど、果たして今回はいかに。

 

今回は、まずは「鉄コン筋コンクリート」から観てみようかな。そうそう、ついこの間までやっていた「ピンポン」のアニメはめちゃくちゃ良かった。まず、構図が素晴らしいし、色遣いは「まことちゃん」のように若干奇抜な匂いはするが、松本大洋の世界観にうまくマッチしている気がした。そして何よりテンポがいい。アニメにおけるテンポって実は一番重要なのじゃないかと思う。漫画を読むテンポって人によって個人差はもちろんあると思うけれど、大きくは作風に影響されるものである。台詞はもとより、絵に込められた情報量、コマごとの接続具合などが漫画を読み進めるテンポを決定する。そして、このテンポこそが、作品を構成するいろいろな要素が交じり合って完成するがゆえに、作品をその作品たらしめる最も重要なファクターだと思う。アニメで漫画を再現するときは、漫画から読んでいる読者のテンポを乱さないようにしなければならない。わざと崩してくるものもあるけれど、それは敢えて意図的にしている分には考えがあってのことなので、読者にも説明がつきやすいしきっと製作側も何かしらそこを匂わせるようにしてくるから、読者側も混乱することは少ない。その点、「ピンポン」は素晴らしい出来だったと思う。

 

話はそれたけれど「鉄コン筋クリート」はどうだろう。漫画は読んだことがないのだけれど、楽しみだ。

甥っ子と僕

僕には4歳の甥っ子がいる。無邪気で元気で、可愛くて仕方ない。そして、行動を見ていると全然飽きがこないほどに面白い。ときには面白いを通り越して、驚きをもたらせてくれる。

 

彼は電車が好きでプラレールでよく遊んでいるのだけれど、いつも床に寝そべってそれを動かしている。話しかけてもあまり返事は返ってこず、どこか一人で別の世界へ行ってしまっているような顔だ。

 

しばらく横にいると、飽きたのか彼が顔を上げる。ここぞとばかりに聞いてみる。どうしてそうやって電車を見るの?と。彼は「顔がよく見えるから」とあっさり。試しに甥っ子の横に寝そべってみてプラレールを見てみると、なるほど顔が良く見える。そして、しばらくそのまま目前の景色に触れていると、はっと気付いた。その景色は駅のプラットホームから電車を見るのと同じなのだ。角度といい、目線の高さといい、まさに駅のプラットホームの景色。遠い場所から段々と大きくなって近づいてくる電車がありありと目の前に広がった。彼は実際に駅から見える景色を、プラレールで再現していたのだ。プレレールは電車で、床は駅のプラットホームで、彼の周りの空気は駅の空気、きっとアナウンスも聞こえているだろう。つまり彼の心風景の中ではそこは、まさに駅そのものであったのだ。

 

おそらくはうちの甥っ子に限らず彼ら幼児は、同じような創造、これは立派に創造であるだろう、を日常の中で行っている。ふと、その一面を垣間見た瞬間、もう自分には二度と見ることのできない世界の尻尾に奇跡的に触れられたような、まるで食べてはいけないリンゴを齧ってしまったような、不思議な感覚を覚えた。彼の案内無くしては二度と見ることのできない世界だ。しかし、同じ景色を見ていても、そこに見えるものは彼と僕では全く違うであろう。一体、彼はどんな世界を創りあげているのか全容を見てみたいと思うと同時に、少し怖い気持ちにもなる。

 

一見、ただおもちゃで遊んでいるように見えても、彼らは当たり前のように我々大人にはもはや行うことができないほどに豊かで深い深い世界を創り上げている。運がよければ、そして彼らの機嫌が良ければ、ちょっとだけその世界に連れていってくれるかもしれない。

緊張するということ

飯屋のカウンターに座って、その店イチ押しの餃子よりも美味い鶏のから揚げを食べながら、奥座敷の三人の会話を聞いていた。

 

年配のおやじさんとおそらくはその息子夫婦。おやじさんと嫁はよく喋る一方、息子はその間の会話には全く入らない、というか入る気すらない模様。よくよく耳を澄まして様子を伺ってみると、おやじさんと嫁は話が盛り上がっている風でも無く、お互いの共通の話題を必死にかき集め何とか場を成り立たせようとしているのがわかる。本来ならば、息子が二人の間に入り場の雰囲気を作るべきなのだろうが、この息子は早く帰りたいのか全く会話に入る気は無いようで、下ばかり向いている。そこで、おやじさんと嫁が仕方なくお互いの共通項を探り合っているという次第なのである。

 

ところで、嫁の様子を見ていると明らかに緊張しているのがわかる。何とか話を途切れさせまいととにかく喋ってはいるが、声は上ずりやけにソワソワしているのだ。ここで僕がおやじさんの立場だったらどんな話題を切り出すべきか、鶏のから揚げにちょっとマヨネーズをつけながら考える。

 

きっと僕ならこう切り出すだろう、「人はどうして緊張するのだと思う?」と。こうすることで、自分が相手の緊張を理解しているということをわかってもらえ相手の負担も少しは軽くなるかもしれないと考える一面もあり、はたまた僕は割と破滅的なところがあって相手が嫌がるであろうことを敢えて無視した形で空気を読まずに話題にしてしまおうと考える一面もある。そして、次にこう質問するのだ。

 

「緊張をほぐすためにはどうすればいいと思う?」。

 

こうやって話題をシミュレーションしながら、答えを必死にさぐってみる。自分の過去体験のデータベースを探ってどうした場合に緊張がほぐれたのか、脳みそをフル回転させて思い出し、そこから何か抽象的な、つまり個々の体験から帰納的に導き出した一般論を創りあげるのだ。そうやって何とか答えを準備してから、僕なら次にこう答える。

 

「セックスをすることだよ」

 

と。嫁からは僕に対する嫌悪感、猜疑心、絶望、いろいろなマイナスの感情が予測どおりに表れるはずだ。だが、僕には彼女の感情を十分に和らげられるだけの、体験に基づいた説得力のある百万個ほどの言い訳を既に頭の中で考えている。上手くいけばマイナスの感情をプラスにまで持っていけるかも知れない。それが無理でもいくらか感情の揺れは抑えられているはずだ。そして、どっちにしてもその頃には彼女はもう僕を前と同じようには見ていないと思う。つまり、これは何の話だっけ?そう、緊張についてだね。もう十分に嫁とは打ち解けられている気がするのだけれど、果たしてどうだろうか。

 

この辺りまで妄想を進めたところで、三人は帰ることになった。僕は肉汁を上手く閉じ込めた実にジューシーなから揚げの余韻に浸りながら、iPhoneを打つ。

 

セックスについてはまた今度。

散髪という苦手

今日日、「散髪」という言葉を使うこと自体、おしゃれに無頓着なことを周りに知らしめているようなものであるが、実際のところ本当に無頓着なのである。

 

小さな頃から、髪を切るたびに理想の散髪後の自分と実際に鏡の前に現われた悲哀に満ちた自分との乖離に絶望的な気分になってきたという経験が、今日の僕の散髪に対する苦手意識を作り上げてきたわけである。小さな頃は、散髪屋に行くと親から電話が散髪屋にかかってきて「ここはこうで、あそこはこう」と理容師さんに指示が飛んでいるのは、毎度の光景だった。もちろん、できあがった頭は自分の理想とはかけ離れた、まるで大五郎のような悲惨なもので、本当に散髪が嫌いだった。何度か、家に帰って怒りのあまり号泣したこともある。

 

そして、いつの頃からか嫌いを通り越して「もう好きにしてくれ」とある種の諦めが心の中に漂うようになった。もう何も期待しない、できるだけ自分の中のハードルを下げておくことで、散髪後の自分をスッと受け入れることができるように、いわば心の鍛錬を半ば強制的に行ってきたのだ。こんなわけで、散髪に行っても今では自分の頭がどうなろうがもうどうでもよくなってしまったのである。もちろん、今では親からの指示は無いけれど、けっこうなクセ毛で散髪後は毛が馴染むまでは四方に散らばったような状態になり、どの道おしゃれなものにはならない。もう好きにしてくれ状態である。

 

しかし、こうなると散髪をされている間はめちゃくちゃ暇になる。自分の頭がどうなろうが気にならないので鏡も見る必要が無いのだけれど、かと言ってテレビなんか置いてある気の利いた散髪屋でもないので、もうただひたすら目をつぶって寝ているフリをしているしかない。なんとなく眠くてウトウトできているときは良いんだけれど、困ったことに僕には弱点があって右の首の後ろあたりがものすごく弱いのだ。あそこを触られると体がビクッと反応してしまって、自分では抑えられない。我慢するために体中に力を入れているのだけれど、おそらく理容師さんにはバレバレなんだろう。寝ているフリをしているのも、同時にバレていると思う。

 

こんな具合で、散髪は苦手なのだ。茂木健一郎さんのように自分でチョキチョキ切れればいいのだけれど、あいにくああいう自由人のような髪型が許される自由な身でも無いので、おとなしく3ヶ月に1回は散髪屋さんに通っている。

 

ちなみに、今日散髪屋に行ってきた。理容師さんに「お客さん髪の量がすごいですね」と言われたが彼はわかっていない、髪が太いだけなのだ。

 

 

モノが本当によく壊れる年だった

元々、物欲があまり無くて大抵のものは「使えればいいや」というスタンスで最低限の機能を持ったものの中で最安値の商品を購入しており、品質もそこまでいい物を持っているわけでもないので、壊れてもあまりショックも受けず「仕方がないじゃないか」と割り切るようにしているのだけれど、今年は本当にいろんなものが同時に壊れてちょっと困っている。

 

今、カタカタとタイピングしているこのPCを置いているコタツは木製の足が一本パキパキになって割れてしまっているし、ヒーター部分はネジが取れてしまい、片方が斜め45度に垂れ下がってしまっている。愛用の自動巻きのセイコー時計も狂ってしまった。そして、エアコンは暖房をつけると何故か途中で勝手に落ちてしまうし、スーツは2着ほつれてしまい、ドライヤーは先端部分が割れてしまい半分ゴミ置き場に足を突っ込んでいる状態。そうそう、このPCも内部から異音が出てきて、もう6年くらいは使っているモデルだしそろそろ限界だろう。そうだ、一番困っているものを書き忘れていた。冷蔵庫である。ドライヤーと湯沸かし器を同時に使用するという手痛いミスをしてしまい、ブレーカーを落としてしまって以降、冷蔵庫がうんともすんとも作動しなくなった。ものをあまり大切にしない僕に対して、家中のモノ達が身を呈したストライキ行動に出たようだ。正直、滅茶苦茶効いてる、効いてるよ。訂正しよう、ちょっとどころじゃなく大変困っています。

 

雀の涙ほどのボーナスで今年はデジカメを買おうと考えていたが、ちょっと今年は厳しいね。

結婚式に出席

昔の知り合いの結婚式に参列。

 

正直、参加する側としては退屈極まり無いのだけれど(失礼!)、結婚式の主役たる本人たちにとっては一つ一つ結婚に向けて準備をしてきた過程と結婚式という晴れ舞台を経験したという事実がおそらくは今後の二人の人生で大きな意味を持つものだろうと考えると、感慨深いものがある。

 

昔、武士が元服を行うことによって、瞬間的に子どもから成人への変身を遂げたように、結婚式という儀式はある種の通過儀礼であり、他人同士から夫婦へと瞬間的に(というか瞬間的だからこそ可能な)変身を遂げる大切な意味を持つものなのだろう、と勝手に推測する。であるならば、そうした事実性を可能たらしめるある種のトランス状態が場に必要なのだと思えるのだけれど、そうした境地に至るにはそれなりに準備がいる。聞くところによると結婚式の準備は莫大な時間と労力がいるらしいのだが、これは儀式のための禊であり、これを経験したことによって初めて結婚式という祭事の中でやっとトランス状態に入れるのかも知れない。

 

そう考えると、泣くほどに感極まる主役と、それを取り囲む客人たちとの間に熱に差があるのは仕方ないことなのだろう。昔、「男はつらいよ」の中で寅さんの妹が結婚式を挙げる場面があったかと思うが、あれは主役も客人もが一緒くたになってアーダコーダとワイワイやっていて見ているだけで楽しそうだった。僕の行く結婚式は大体がかしこまった形のもので、これはこれでスマートな雰囲気で良いとは思うが、本来は客も主役と同様にぐちゃぐちゃになりながら楽しむのがカオスな雰囲気を作り出し祝祭的な空気を場の皆が共有できて、大きな事実性を打ち立てるのだと思う。

 

ところで、過去にもらった引き出物で一番嬉しかったものは、二人の手作りのお菓子。クッキーをかじると二人の温かい幸せを分けてもらえたようで、心がほっこりとしたのは今でも良い思い出。